Zo通信
空間の不思議。上下左右限りなく広がっていく世界。空間という言葉からは、宇宙の無限性を感じます。地球上に限定して考えると人が立っている面と、見上げて面、ぐるりと見渡す周囲の広がりというとらえ方が自然です。その空間の中に1つのものを置いてみると、様々な印象が生まれてきます。人の目線や立っている位置によってもその印象は様々に変化します。配置されるものの数が2つ3つと増えてくるとそれぞれの関係性が生まれてきます。ものの向きやの光の状態によっても印象は違ってきます。空間の中では、人は、その「場」に参加し、ものと直に接することになり関係性の一部になります。空間の不思議さは、それまでの現実が、地上の重力や物質感から離れて、いつの間にか現実とは隔絶された象徴性へと転換していくことにあります。それまで、ものの1つ1つが単独では発してこなかった個性が、象徴的空間では、お互いに新たな個性を持った存在に生まれ変わります。造形表現における空間では、空間そのものの大小の概念をも超えて、独自の表現媒体として様々な心的宇宙を創り出すことができます。
(S.I)
「質」について考えてみましょう。画像や音については、目にし、耳にして明快で心地よく、画質、音質とし受け止められています。形あるものは、広く品質という言葉が使われていますが、造形では、素材(材質)の扱い方から始まって、材質感や光の印象、置かれている空間の状態まで、その良し悪しを総合的にとらえなければなりません。
美の判断に一定の「よりどころ」があるように、質についても同じことがいえます。作者は制作の過程で質を追求し、満足度に至ったときに作品から手を離します。素材が持ち合わせている粗密感は、荒々しさや繊細さとして表現の可能性を秘めています。作品は、作者の手を離れたときから自立し、「時」の洗礼を受けることになります。時の流れとともに変化していきますが、深みとして存在感を増していくこともあります。制作すること、鑑賞すること、保存していくことは、それぞれが別の役割を担いながら作品と係わっています。「質」を共有しながらつながっているといえます。
(S.I)
自作『循環』という作品についてお話しします。1986年にチェルノブイリに原発事故が発生しました。事故からおよそ10年後に桂の木を素材とした楕球状の立体として完成したのがこの作品です。表面に複数の線が現れては消え、全体としてはつながっている。ひとつの国や特定する地域に留まらず時間をこえて出来事は連鎖していく。おりしも現地で被爆した子供たちの心をいやす目的で作品の公募が企画され、野外展示に耐えるようにブロンズ用に原型を作り直して応募しました。1997年に『INFINITY』という題名でベラルーシのミンスク市にあるサナトリウム施設の庭に永久展示となりました。日常の生活の中には目に見えないものが沢山あります。無関係に思われているものがどこかでつながっている、そんな思いの作品です。同じ原型から鋳造したものが群馬県立土屋文明記念文学館の2階に展示されています。東日本大震災とそれに伴う原発事故では、この2つの作品の制作時の気持ちが蘇ってきました。新型コロナの感染拡大の懸念も重なり、地球全体がひとつであることを実感しています。
(S.I)
触れるということ。直に対象と接し、手にすることによって、多くのことを感じとります。人は、五感を通して様々な情報を体の中に取り込んでいきます。なかでも触感は、皮膚感覚として繊細な情報を与えてくれます。手で触れ、包む。日常の中での手を通しての経験は、体の一部となって記憶、蓄積され、日常のあらゆる場面において、ものを見極めていく大きな力になっています。造形において、手を動かしての思考は、その過程において多くのことを発見し、作り手にとってイメージを確かなものにしてくれます。ザラつきや滑らかさ、冷たさや暖かさ、重さや軽やかさなど、手の感覚による記憶は、素材感として、人とものとを密接に結びつけます。長年人の手で触れられ、艶やかにすり減っている用具や木像や石像などを見るとき、これまでに多くの人々が共有してきた時間がそこに在ることを感じます。触れてみたくなるもの、思わず触れてしまうものには、確かな存在感があり、その温もりに安堵します。
(S.I)
「型」という言葉は、身近に使われています。鋳物の外・内型としての意味の他に、人の行為の手順や約束ごとにも使われています。一定水準の質を維持して、繰り返し再現する必要性から、人々に共通する認識として型というものが生まれてきます。ものづくりにおいては、制作までの手順の無駄を省き、より高い質の維持を求めて、型を進化させてきました。型には、人の知恵と工夫が詰まっています。行為の手順や約束ごととして使われるときは、人による解釈や表現に違いがない「手本」としての役割を果たし、学ばれ伝承されてきました。完成された型は、簡素で無駄のない美の裏付けをもっています。「型から学ぶ」ことは、そのための修練も必要ですが、そのことによって、多くのことを身につけることができます。一方で、「型にはまった」とか「型どおり」という言葉は、窮屈な意味にも使われています。社会の価値観が大きく変わろうとしているときには、これまでの型が崩れがちになります。型を破るにしても型の習熟あってのものです。創造するという意味も合わせて考えなければなりません。
(S.I)
